なかま

しばらく以前。患者としてではなく病院に通ったことがあって、被介護者の介護者としてそれの精神科に通院していた。待合スペースにいるとはなしかけられることがしばしばあり、スポーツのゲーム結果がどうとか都会の商業施設がどうとか担当医の卒業した大学がどうとか。興味のもちにくいような詳細が気にならないようなはなしが多く。まるで美容師さんやタクシードライバーさん、近隣住民や親戚がするようなはなしのようでした。

阿倍野にでかいビルできるらしいと伝えたら「またほかの患者さんにはなしかけられたん?」と言って母は笑顔で。「あんたのことなかまやおもてんやわ(あなたのことをなかまと思っているのだろう)」とつづけた。5年とか10年とか経過してることだがずっと。母はなにを言いたかったのか、わたしはなにを言われているのかわからないでいたのだがふと。母はわたしをなかまではないと言いたかったのではないかと思った。

ヒトとか人とか人間とかのこと。←それがなにかだいたいわからない。自分と誰かがちがっていることを「住む世界がちがう」とか「人種がちがう」などと表現することがあると思うが、ないかも。あるとして。自分と誰かを自分のグループと誰かのグループにわけてるということで、おおむねおそらく自分のグループのほうが大きかったり強かったりするのではないか。ですからすなわち自分をメジャーとかマジョリティとかと設定してるのではないかと思った。

 

笑いのツボがおなじ人とは、おなじようなことで笑う人であるしおなじようなことで笑えなくなる人であろう。半世紀以上生きた。笑うようなできごとは多くあるが10代のときに笑っていたことや30代のときに笑っていたことのどれだけかについて笑えなくなっている。自分自身の経年変化でまるで別人のようになっている。当時と「住む世界がちがう」のはそうかもしれないし「人種がちがう」かについてはさっぱりわからない。人種がなにかわからなくなって数年経つけど、そもそもわかっていなかっただろうけどとりとめなく人種を感じていた。来月。カンガルーはヒトですと科学者が発表したとしたときすんなり対応できるか不安だ。トコジラミはシラミ(目)ではないときいたときはああそうなんですねとすんなり思ったのだけど、それはたぶんヒトでないからと思う。

死んだ人と死んでない人々

「地デジ」は「チデジ」とよむのでしょうが母がぜったい「ジデジ」と発音するのだけど「ヂデジ」かもしれない。

多い数の人々がひとつの事象で死んだときに、なんかぼわっと全体みたいにとらえることになってしまうかもしれないのでとても注意しないといけないと思っていて「ひとつの事象」ですらひとつ事象でないということで、それは。「オカンて「DVD」のことぜったい「ディーブイ」て言う」という本当にあったそうとうくだらないことがひとりひとりにあったということが生きていたということではないかと思って、のこされた人。遺族とか友人とかの人がどんな気持ちや気分でいるのかそんなことしてなにもならんのに心配してしまう。わたしの母などが死んだはなしではないです。オカン生きてる。

たったひとりで生死することはないのだからそれはおそらくひとりひとりにあった、まいあさ駅前でみかけるくらいのだれも感動も感激もしないことがあったことそのものが大切とか重要とか思う。多い数のたとえば。作品をのこしたとか任期をつとめたとか、それがその人の人生の大半にそうだとしても一部でそうだとしても、人は創作物や現象ではなく、たとえば。まったくクズみたいな人のカスみたいな人生でも。自販機のおつりとるときギックリ腰になって往生したというはなしを自販機のおつりとるたびに言うみたいなまったくどうでもええみたいなことをだれかが知ってるということが人生で、生後10日でも10年でも100年でもそのあいだにした。あった。なにかをだれかが知ってるということ。

近隣でくらす人のペットのイヌがラブラドール・レトリバーで、クール宅急便の人にだけほえるのを近所の人々は知ってるということ。その他クロネコサガワゆうパックにはほえへんのに。イヌも生きてる。マイアサウラとか会社経営者とかのざっくりぼわっと考えることとそうでないことがあって、生きてる人が死んだときに大きいことが小さくなったり、小さいことが大きくなったりするようにみえて、そうだけど死んだ人は被災者とかアニメーターとかではないとさけびたくなる人がいるのではないかと心配になる。そんで心配してもなにもならない。

故人に口なし

有名とか著名とか高名とかの人が死んだあと。故人と親しくなかったという文章を目にすることがあって、自分なりにまじめにしっかりよむとたいがいいつも。そんなことない。どうよんでもあなたは故人と親しかった。故人はあなたと親しかったと思ってただろうにつき放すようなこというな。などと思っていた。もっというと。いえ。いわない。さいきん。昨年末。あれ?なんかちがうかもと思いました。まじめにしっかりよんで、どうよんでも「あなた」と故人は親しかったでしょう?と思ったのは、「あなた」は故人と親しかったからだし、「あなた」は故人と親しかったことを書いたからだと思いなおした。ちょっとわけがわからなくなってきた。

人に。生きてる人や死んだ人に、あなたとわたしは親しいあいだがらかとたずねても本当のことはわからない。「親しい」はたぶんおそらく。ちがうかもしれないけど客観で、「親しくなかった」ということは客観的にはそうかもしれないがということで、「あなた」は故人におもいがあったということを書いたのではないかと思って、むかしばなしですが。警察官とか教師とか保護者とかに「親しい付き合いやった?」とたずねられたとき、はあ?なんなん?て文字がみえてた気がする。空中かどっか。脳裏とか眼前とかに「はあ?なんなん?」てうかんだやつみえてた。自分のデコにうきあがった「はあ?なんなん?」て文字が相手にぶつかってかえってきたやつみえてたのかもしれない。はあ?なんなん?好きやったよ。好きやった。自分が。いまも好きやし。だからなんなん?相手はしらんよ。相手のことはわからんよ。

人のこと一生わからないのはとんでもないできごとでおそろしい。生きててもわからないのだろうけど、わからないまま生きていくのはなんかそれはそうだろうしふつうのことかもしれないからまあしょうがないのかもと思えるけど、死んだ人のことはもう絶対に確実に一生わからないかもしれなくて恐怖だ。生きてる人が死ぬのもふつうのことなのだろうが。

 

親しい→「したしい」と思って書いた。「ちかしい」でもかまわんが「したしい」と書いたつもり。

無冠の友

掃除とか洗浄とか排出とか修理とか用に新聞紙(古新聞)がほしいときがあるが、めっぽう手に入れにくくなった。「聖教新聞でよかったらあるけど?」といわれてどういう態度をとればよいのかわからない。なんとかかんとか手に入れた聖教新聞はおなじ日付のものが2部ずつたたまれていて、ときに公明新聞もあった。購読というより購入という感じがした。「積読(つんどく)」みたいに「買っ読(かっとく)」みたいなことばがあるのかもしれない。読まん読(よまんとく)。

姫さま願望

人質だったか従者だったか 5人えらばなければならなくなったときのリストをつくっていて、二階俊博麻生太郎衛藤征士郎谷川弥一さん、小沢一郎だったのですけど谷川弥一さんがどうやら全国民の代表の身分でなくなったぽいのではずさなければならなくなった。二階俊博麻生太郎衛藤征士郎小沢一郎、エサキテツマ(江﨑鐵磨)の 5人が、わたしが姫さまになったときの人質だか従者だかです。

族(やから)

皇族と、家族とか民族とか郵政族とかの「族」は同じなのかちがうのか。

テレビかラジオから「こうぞくすうかくほ」てことばがきこえて、たぶんラジオだったけどはっきり思い出せず。ですので。イヤホンからきこえて。首相官邸サイトみましたところ「皇族数確保」らしいとわかって、それは。「第二百十三回国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説」にある。こわいことばと思ったのだがそうでもないのかわからない。「第二百十二回国会における岸田内閣総理大臣所信表明演説」にもそれはある。

横に。左から右に漢字の数字の文字よむとき二百十二とか二百十三とかよみにくいというかわかりにくいというかややこしくてむずかしい。不得手。「二百十一」と「二百十」は、数値の差 1 のはずなのにパッとみて 980くらい差ある気がする。まあ、縦によむ場合でもそれらの差を 6か7くらいに感じるのでしかとよめばよいだけで、さて。第211回国会と第210回国会の方針演説の文章を目を皿にしてさがしたつもりだが「皇族数確保」はないぽかった。「皇」を command +F したら 0/0 だった。「皇族数確保」てことばなぜこわいのか。ふいと思い出したのは「女性の活用」で、いつだったかだれだったかが言ってたヤツ。本音とか本心とか丸見えとかむき出しな感じがするのに、それがなんだかわからない。「合計特殊出生率」はこわい感じが小さいが「女性の出生率低下」はこわい感じが大きい。

 

「皇族数確保」は、ずっと以前からあることばなのか google検索してみるも、どうやったらええのかわからんしうまくいかん。なんとかかんとかやれることやってみるが 2004年以前はやはりうまくできず、2005年は「"皇族数確保"との一致はありません。」でしたし「"皇族数の確保"との一致はありません。」でした。2006年にも「"皇族数確保"との一致はありません。」でしたが、「"皇族数の確保"」は 2件、検索結果らしい検索結果がありました。「皇室の伝統を守る国民の会【公式】」サイトのどこかにあるらしいのですが、しかし。なんかちょっとこわいようなむずかしいような感じがするサイトなのでくわしくみませんでした。漢字の数字が多いし。不得手。

 

人は人で数は数で人数は人数です。死者とか負傷者とか被災者とか、犠牲者とか。は、どこかからなにかをみて数えるときのことで、人はひとりひとり人です。人のことをなにかのおりに数えて人数にする場合があって、ダンボールベッドの注文をするのは数だし議員数も数です。ベッドの注文数は人ではないです。そんなことはそうです。なににひっかかってるのか自分がまったくわからない。「皇族」を理解できていないというのはそれはそうです。皇室の人々を人だと思っているのですけどそれがちがうのだとしたらたいへんなことです。なんかぜんぜんまちがえてるかもしれない。自分がこわいことばだと思っていることが「世間」ではまったくそんなことないということかもしれない。どうしよう。こわいおそろしいことばだと思ったのだけどどうしたもんか。

死語に解放される

ゆうべ。家人と会話中にデカパイデカケツデカチンと言う機会があったのでそうした。のち。さきほどデカパイデカケツデカチンと言ったら気分がスッキリしたような気がしたと打ち明けたところ「そういうことはあるかも」と同意を得たが、そのあいだ。もしかするとその前から。悲しいような不安なような変な気分になり、コウフン(興奮)もしていたようにも思う。言い訳とか言い逃れとかをしているときのような、説明とか説得とかをしているときのような、そんなときの顔面の熱さとか息のしづらさがあり、ビハイ(鼻背)の毛穴がひらいていたのではないか、声が大きくなっていたのではないか。

告白。カイシュン(改悛)。サンゲ(懺悔)。とかのなにかなのかもしれない。

大きい乳房のことを「デカパイ」と言ったのであって、乳房の大きい人のことを「デカパイ」と言ったのではないとの言い訳は成立するかと思ったけど、そんなこと成り立たせなくてかまわないので思うのをやめた。つかれた。