死んだ人と死んでない人々

「地デジ」は「チデジ」とよむのでしょうが母がぜったい「ジデジ」と発音するのだけど「ヂデジ」かもしれない。

多い数の人々がひとつの事象で死んだときに、なんかぼわっと全体みたいにとらえることになってしまうかもしれないのでとても注意しないといけないと思っていて「ひとつの事象」ですらひとつ事象でないということで、それは。「オカンて「DVD」のことぜったい「ディーブイ」て言う」という本当にあったそうとうくだらないことがひとりひとりにあったということが生きていたということではないかと思って、のこされた人。遺族とか友人とかの人がどんな気持ちや気分でいるのかそんなことしてなにもならんのに心配してしまう。わたしの母などが死んだはなしではないです。オカン生きてる。

たったひとりで生死することはないのだからそれはおそらくひとりひとりにあった、まいあさ駅前でみかけるくらいのだれも感動も感激もしないことがあったことそのものが大切とか重要とか思う。多い数のたとえば。作品をのこしたとか任期をつとめたとか、それがその人の人生の大半にそうだとしても一部でそうだとしても、人は創作物や現象ではなく、たとえば。まったくクズみたいな人のカスみたいな人生でも。自販機のおつりとるときギックリ腰になって往生したというはなしを自販機のおつりとるたびに言うみたいなまったくどうでもええみたいなことをだれかが知ってるということが人生で、生後10日でも10年でも100年でもそのあいだにした。あった。なにかをだれかが知ってるということ。

近隣でくらす人のペットのイヌがラブラドール・レトリバーで、クール宅急便の人にだけほえるのを近所の人々は知ってるということ。その他クロネコサガワゆうパックにはほえへんのに。イヌも生きてる。マイアサウラとか会社経営者とかのざっくりぼわっと考えることとそうでないことがあって、生きてる人が死んだときに大きいことが小さくなったり、小さいことが大きくなったりするようにみえて、そうだけど死んだ人は被災者とかアニメーターとかではないとさけびたくなる人がいるのではないかと心配になる。そんで心配してもなにもならない。