階下に両親がいるはずだけど物音ひとつしない、ふたりとも死んでいるのかもしれない

つくづくたいしたことではなかったのだと思っています。たいしたことではないことを10年20年30年と恨みつづけていて、ずっとの間をたぶん恨んでいたのではなく、今は恨みに思っている気持ちだけど先週や先月はそうではなかった気がする。30年とかのあいだあれはなんだったんだろうなと思ったり考えたりしていて、なにかのきっかけなどで断続的に恨みの気持ちになるということかと思う。たとえば少し、こういうことがあったとどなたかにはなせばたちまちたいしたことがないとおもいしらされることになる。もともとたいしたことではないことですが、それをああたいしたことがないわとあきらめきれずにずっとイヤなできごとナゾのできごととしてずっとおぼえている自分をおもいしらされることになってますますイヤな気持ちになる。ニュースをみたり人々のはなしを聞いたりすると、死ぬということがどうやら最悪のことで、殺されて死ぬということかもしれない。たぶんそうなのだろうしそれでいいけど、生きているうちのことはたいしたことがないということなのだとおもいしらされる。殺されて死ぬことにくらべたらなにもかもがたいしたことがないことで、冗談だったり、単なる興味だったり、遊びのつもりだったり、それぞれが生きていたらどこかで解決できるというような希望というか安心というか保険のような気持ちがあったりするのかもしれない。たかだか結婚式に出席するだけです。くだらない間柄のどうでもよい人が結婚式やら食事会をするということです。お相手は無辜の民でとらわれの姫で、イヤなことがありませんようにと願っています。時は経っていて家族はみな大人になり、こどもがおかす小さな罪などをのりこえて姫をむかえる。未だにわたしはなにもすてずそれをひきずって、はなしかけられたら両手をからだのうしろに組んでイエスサー、はなしが早くおわる方法を2こか3こかためして失敗して、その日のおわりにゲー吐いて翌日は健やかに。明日も健やかに結婚式やら食事会に出席する予定です。助けてほしいと言わずにくらして、親族ではない人々にはなんども言ったことがある。だから今うそをつきました。人を助けるということはとても大きい責任があると上岡龍太郎パペポで言ってて、中身はおぼえていないけど、ひとの人生のくらしにわたしへの責任ということがあってはいけない。本日さきほど、両親に暴言か暴動か暴挙をした。どうしても結婚式に出席したくない理由があるとさけんで言って、しかしその理由はぜったいに言わないとどもって言った。きょうだいがしたことか、お母さんがしたことか、どっちなのかと母がさけび、それは言わないわたしは30年くらいをそうしてくらしてきたから母もそうしてくらすべきだともういちど叫んだ。死んでいないからいいじゃないかと誰かはたぶん思うだろうから、自分もそう思えばいいし、母もそう思えばいい。これからの正義のはなしをしようと言って、これまでのことはなにがあったかはわたしは絶対に言わない、あすの結婚式に出席したくない理由はずっとこれまでそう言ってきたようなものではないということを知って生きてそして死んでくださいとたのんだ。それだけ!以上!としめた。わかりましたと言った母は体のまえで両手をそろえていて、それをみて謝らせたのだと気がついた。おおかみこどもの映画について、子らが母親をこらしめたと書いていた人がいた。わたしは小さなこらしめの方法をいくつも思いつき練って実行してきて、本日チカラがはみでて大声で暴言をした。母をみていて、母自身とわたしの区別がついていないと感じることがなんどもあったけど、それはどこかお互いサマだなと思うときもあり、ずるずるとくらしてきた。お母さんにおきたことしかおきていないのではないと声に出して母に言って、なにを言ってるのか自分でわからず、今もわからず、なにがあったのかとしきりにたずねてくる母を今、思い出してる。ずっと前からべつべつの人間だったこと、母がしらないことをわたしはしって、わたしがしらないことが母にあって、ただそれだけなのだけど、とても大きいこらしめをしたと思った。チリチリと作戦をねらなくてもたったこれだけでよかったとは。と、たいへんおどろいた。気分はよくはないけど少し晴れやかな感じがする。