Z Wind Ups のロボットとカメ。Volt と Neutron。

動く(現実はバックはしません)。


「母親たち1990」
テレビ番組で「自分は同性愛者だということを子がはなしてくれたら抱きしめると思う」というようなことを女性が言ってて、ずいぶん芝居じみた気持ち悪い人だなあと思って、子がはなすにいたるまでのストーリーがその人のなかにあってそれはたいそう気持ち悪いものにちがいないと決めつけて余分に気持ち悪がった。と思うのだけど、はっきりおぼえてないしきっちり思い出せないしネツゾウしてるかもしれません。そもそも女性は対話をしていて、相手はダブルドレスの結婚式をあげたカップルの人々でそれぞれの親子のさまざまをはなしたあとの発言だったからまるでカンニングだと思ったし、彼女らの親の人々よりも女性自身がすぐれた親であるという発表のようでうすぎたいない感じをもった。のだけど、ああ。目の前にいる人に言うために言ったのかもと、いま思った。

抱きしめられたことを思い出すとザワッと体毛が立つようで、ギュッと肩に力が入るようで。嫌悪がバレないようにおわるのをただ待つ。抱きしめられるのはおそろしくて、抱きしめることについては安心の思い出がある。母のからだに抱きついている自分(の写真)を思い出すと幸福の頂点にそのころいたのではないかと思う。モンチッチは泣き顔だった。拒否や抵抗にあわないことに安心があり、相手がガマンしてることに気がついたら泣きたくなるけど実際には、それでも、おどしてでも抱きしめることになにかがある。なにが?
暴力をふるおうとしたり車道に飛び出そうとしたり、そういう人を抱きしめるのはおそらく制止で、自閉症とか認知症とかの人を親や子やそれ以外の人が抱きしめることはたぶんあって、入院時には身体拘束の同意書へサインをする。わたしは自分のためにだれかを拘束する。


25年くらい前、1990年くらい。変な言い方だけど有名な事件があって、女子高生が殺人された事件と幼女が殺人された事件で、そのころに思春期や青年期だった人々は「あなた(たち)は大丈夫でしょうね」といった類いのことを「母親(たち)」から言われたことがあるとかないとかで、わたしの母は「息子が加害者になるより娘が被害者になったほうがマシ」と言った。「母親(たち)」はまもることについてとても考えて、子の部屋や友人をみて想像しなければならないストーリーにおびえてたのかな。
子の幼少期はイクメン風だった「父親(たち)」も子の思春期青年期には影がうすく、とくに話題になることもなく。ひょっとすると幼いとか若いとかの女を死なせてたのかも。
そして1995年。


まもれると思っていてまもりたいと思っていて、抱きしめる相手を守ろうとして抱きしめた瞬間、抱きしめた自分を守ることに変化してしまうようなことがあったとして、そんなことと、はじめから自分の願望や欲望のために抱きしめる、たとえば強姦や殺人の目的があって抱きしめることはちがうのだろうけど、目的、
なに考えてるのかわからなくなったのでやめます。おわり。


長いし、ロボット関係ないし、はずかしい。