赤ちゃんの声がきこえていて1時間くらいきこえてる気分で。泣き声が。窓からベビーカーがみえる。ネイビーの。


1995年1月の早朝に地震があって、20分くらいその中にいた気分だったけどこのあたりはそれほどのものはなくガクガクと、これもそう思っているだけだけど。数秒か数十秒、それか1、2分どこかにつかまっていればよかった。連絡がつかない人がいくらかいて、数週間でいくつもの安がわかり、数ヶ月でいくつかの否がわかり、数年数十年。
すさまじい、これも主観で。家族間でそんな暴力があったことをだれかがいなくなってから知って、そのだれかがいたときに聞こえていた声はことばはどんなだったか思い出す。


泣き声はおそらく、たぶん。10分もきこえてなくて音のないテレビではまだCMが流れていて次のCM。おとなの人の声がして。「はいはい」とか言っててはっきりわからないけどどうやら日本語で。赤ちゃんの人の声はなに言ってるかわからない。40分くらいきこえている気がするけど実際は絶対にそんな長い時間ではなく、人生のはじまりのほんの短いあいだだけ不満や不安、不平や不、不、ほかになにかあればそれらを泣いてわめいてうったえる。ときどきしか出会えないけど。そういう年頃の人々のその短い時間にそうぐうすると、なにかに絶望したような気分で、感動だか感激だかで叫びたくなる。すばらしいすばらしい。泣きそうでそれをこらえる。
おとなの人のほうの声が泣き声のときには様子をみにいこうと決めました。買い物とか掃除とかのフリして。