モトサヤ

わたしのきょうだいたちが、父のシリをふいたと言う。「あの子らにも少しはやらせなあかん」と母は言った。きょうだいたちがそのようなことをするとわたしの価値が下がると不安に思っていて、価値というのはおかしいかもしれない。わたしだけがかわいそうだったのにみなが父のシリをふくのならそれは当然のことになってしまい、近隣の人々や、医療・介護の関係の人々からえらいねとかがんばってるねとかよくやってるねとか言われなくなるし、両親、とくに母の。わたしへの罪悪感がなくなってしまう。そうなるくらいなら人糞が顔についたり怒鳴られたりするほうが良いと、ずっと思っていた。

ところがどっこいでして、きょうだいたち。とくに男たちが父のシリをふいたはなしを聞いたときには大笑いしまして、発言はひかえましたがざまあみろだかざまあねえなだか思って、ちょっとした泣き言。たとえば具体的には大便が手についたとか耳元で大声を出されたとか息がたいへん臭かったとか。そんなこと聞いてるときはほざくなイヤほざけ一生言ってろと思って笑ってビュって涙が出た。ざまあ。


子らの配偶者のなまえや顔がわからなかったり、子を客人と思ったり、そんなことが父に増えたのだけど、これからどうなるのだろうというような不安はどれだけか前からほとんどなくなってることに気がついてこんなもんなんだなと、どんなもんかわからんけどああ、こんなもんなんだなと思った。入院中のアラウンド100の祖母は「オバステヤマに入れられる」危惧があり転院を拒否していてとても面倒でして、なんかふつうにもう死ねや!と思った。このことは未来に後悔するだろうかな?と思った。