父の介護とか、わたしへの子育てとか 5

まるっきりキャンプだ。
長い間、ただ生活をしてきて日常をくらしていただけで、それが介護だとひとさまから言われるようになり、先月死んだご婦人は顔をあわせるたびに「近くに娘さんがいるのがうらやましい」と両親にもわたしにも言っていたけど、ほんの15年か30年前には哀れな男と苦労のたえないその妻と素行のよくない子らで構成されてた父の家族は、ほどよく遠慮されほどよく敬遠され、お世辞にも「うらやましい」などと言われるようなものではなかった。幸せになるおまじないワードだとしてもだれもそんなことは言わない。どうくらしているのか何者なのかすら、だれもたずねないしだれもしらない。
だれからもそれなりの距離をおかれていて、それは介護ですと言われる前と後、父とわたしのくらしはそれほど変わってはいないけど、介護だ看護だと表記された車や衣服を着けた人などに誘導される父の姿をみた人々には、一気に距離をつめられた。「ご両親がうらやましい」「お母さんをささえてあげなさい」。こんにちはと言ったら会釈しながらささと消えてしまった人々が、遠くにいるわたしをみつけてかけよって「たいへんね」と。わたし自身も高齢者でない父の生活を吹聴してまわることはしておらず、父が高齢者になるやいなやそれをはじめた。わたしもこの悪趣味なキャンプのひとりの人物で、だからこそ、なにをいまさらいまごろいまどき介護問題だとさわいでいるのだと腹を立ててみせる。
よりよい老後を、老いる親に将来の自分をみる、刺激のある生活、高齢者に生きがいを、プランをたてる、介護はプロにまかせる、こんな介護施設はいやだ、もっとこうすればいいのに。そう思うのは被介護者でなく自分自身。死んだほうがまし、死ぬよりまし、そう思うのは生きてる人間。
医師の子が医師でない将来を選べなかったと言った。医師でなければ人でなし。障害者でも健常者でもなかった者の子はわたしで、ただくらしていることは介護ではなかった。積み木遊びみたいなリハビリをやっておむつをつけてひとりで歩けず、それからしばらくひとりで歩いてひとりで排泄して、そしてまたひとりで立てずひとりで歩けず。それはただそういうことでただそれだけで、まるで父が高齢になったからそうなったかのように慰安婦たちは言うけど、人生の最初にたぶんそうで、そして途中でもそうだった。世間知らずはわたしだけど、世間知らずのみなさま方の介護についての立派な講釈や高邁な精神、おさえながらのむきだしの感情を見聞きするたび、笑けて腹が立って涙がでそう。でないのだけど。
1000円札が落ちてたらひろう。1000円札が落ちていなかったらひろわない。わたしのくらしはそういうもので、努力をしてなにかを得たこともなく、努力をしたこともなく、努力がなにかしらず、同じようにガマンもしらず。
わたしが父とくらしてきたのはわたしが父と親子だからではなく、気がついたときには父とくらしていてすでに親子だった。そのことの理由や原因はまったくどうでもよく。父が生死のあいだをさまようということをして、帰宅して別人のようになっていて、それにしたってもうそうなってからの父との付き合いのほうが長く、わたしは歳をとってすっかり完全に老眼で、針穴に糸を通すときめがねをはずさなければならなくなった。親はマドレーヌやタケノコの土佐煮をわたしにすすめる。ただそれだけ。
母や妻や娘はニセドラッグクイーン。おいたわしや。自分もそうだけど。