父の問題とわたしの問題


父の問題は、父の健康のこと。
わたしが寝てる間に、父が熱発で病院に行ったらしく、つきそった母から「すぐ来て」との電話があり走る。しばらく走ったのですが、早歩きのほうが早いことに気が付いて走るのはやめた。
病院につきますと、車いす(病院で借りたもの)からずり落ちそうになってる父はすでに発作のはじめの段階でございまして、今いるこの病院では診られないということで、かかりつけの病院に行かねばならんということになり、救急車を呼びつけまして、搬送させるっつー事態になりました。今年に入って2回目です。

で、わたしの問題。間違ってると思いながら同じことを繰り返しているということ。
この発作が原因で父が死んだことはなく、発作をおこしてる今も生きてるから発作が出ましたということなので、この発作では死なないことがわかってるのに救急車に来てもらって良いのか。

連休中で、どう考えてもどこの病院もスタッフの人々少ないでしょうというこの日、この発作が原因では死なないことがわかってる父を救急車に乗せて、わたしが指定する市外の病院に運んでもらって良いのか。

第三次救急指定病院である搬送先のその病院に、この発作が原因で死んだことがない父を連れて行って診てもらって良いのか。

そしていつも、救急車が到着するまでに大発作みたいな状態になりまして、搬送してもらってる間それが続き、病院に到着しますと、半身がマヒしてるだの、アシの感覚がないだの、酸素のなんかの理由で後遺症がでるだのプチ騒ぎになるのですが、90分くらいで「発作はおさまりました」「発語がありました」とかで ICU という空間へ入れてもらう。
3〜6週間くらい入院し、退院する時には「ご家族さんが早く気付かれた」「大事になる前に救急搬送をした」ことが「良かった」との話になり、救急車を要請したことは結果的に間違っていなかったことになるのですが、結果はどうあれ、最初の判断は間違ってたんじゃないかということ。

救急車に来てもらうと決めた直後から、父のヨウダイについて「もっと悪くなれ」「死ぬ直前までいけ」と願い続けていること。
簡単に回復されたり、車内で死なれたら、「救急車の要請は結果的に間違ってなかった」ということにならないからって理由で、そう願っているということ。
医療のいろいろのみなさんの大切なものを使ってるって事実が、完全に抜け落ちてしまうこと。

今回の救急車の要請は「結果的にも間違えだった」ということになるかもしれない。間違っていた場合にはバッソクがほしい。