父のキンタマにいたおぼえがない

父のセイノウ(精嚢)にいた記憶も、母の子宮にいた記憶もない。ここにはいつのまにかいた。まったくおぼえてない。

多くの人々は、過去に母体とよばれるところにいたと思います。なにを母体とよぶのかわかっていないのだけど、人々の多くは人間の体内にいたことがあるだろうということを言いたい。そうじゃない人もいるかもしれません。法律とか戸籍とか遺伝とかが関係あっても関係なくても、多くの人々には母体にいたという過去があるのではないかというはなしです。また、その多くの場合にそれは母とか女とかよばれる人間だったのではないか。

「おまえがまだオレのキンタマにいたころ」とか「オレがまだおとんのキンタマにいたころ」とかの言い方があるのですけど、きいたことがあるのですけど。身近で。以前。それをさいきん。久しぶりにこのような言い方の発言を耳にして、もしかしたら人々はそこ、父とか男とかよばれる人間の体内。にいたことはないのではないかと思っていることを思い出した。そのとき(?どのとき?)。精子の母体が父なのだと思います。頭髪の母体も父なのだと思います。精子や頭髪が父であるその人そのものでなく、精子や頭髪の母体が父であるという理屈はよくわからないです。もしわたしが父の精子や頭髪だったとしたら、わたしはかつて父のキンタマにいたことがあるかもしれないと言えると思う。

「ケガレ」というなにかがあり、頭髪も関係しているような「なにか」で生物の生死にかかわっている。父の体毛や皮膚や血液がわたしのきょうだいならわたしは父のキンタマにいたことがあると言うし、緑膿菌もきょうだいではないかと思う。いま生きてる人々のおそらく全員は土とか骨とかでつくられたものではなくて、精子卵子がなんとかかんとかでできた存在のゲンザイと思う。

なにを考えてたのか思い出せない。動いてないと生物と思いにくいのかとか、点みっつあったら顔にみえるとかのこと考えてて、ディスプレイ。なんかの画面とかどこかのポスターとか顔多いなと思って、動いてなくても生物っぽいなとか。

またわからなくなった。わからなくなるということ多い。不安になる。