父の腕時計

父を家まで送ってくれたデイサービスの施設の職員の人が「腕時計がなくなったって言いはったから探したんですけど見つからなかったんです」と言った。このときの「言いはった」は「おっしゃった」の関西弁風の言葉で、「言った」をていねいにわはっただけで「言い張った」とうたはるわけではない。

わたしは父の腕時計はなくなっていないと思っていて、「腕時計がなくなったって言いはったから探したんですけど見つからなかったんです」と聞いてる最中か直後には、施設の職員の人も父の腕時計はなくなっていないと思っているのではないかと思った。
わたしが「この世界から腕時計が消えて無くなるということは、そうそう起きない」と思っていることに対し、施設の職員の人々は「施設から腕時計が消えて無くなるということは、そうそう起きない」と思っているんじゃないかと思う。ふたつは似てるけどちがいます。

わたしにとって、あの腕時計がどこいったかわからんようになったということはどうでもいいことですが、腕時計がなくなったと父が「言い張って」いるかそうでないかは、わりと大切なことです。
介護施設の職員さんの人々にとってはどうなんだろう。どうなんだろうと書いたけど勝手にいろいろ想像したあとです。


このところずっと、毎日くらい「態度の問題」を考えていて、どんどん態度はさほど重要じゃないと思えてきたり、めちゃくちゃ重要だと思えたりとグルグルまわっているのですが、それは自分がどのようなふるまいをするかにはたいした意味はなく、相手のふるまいに含まれている本当のことを考えたり見破ったりすることに、意味とか必要必要性


もしかしたら人は、一番発表したいことは言ったり書いたりしないんじゃないかなと思いはじめています。「行間を読む」エスパーみたいなことをしなくても、なんでそんなことを言ったり書いたりしたかという前提


もしやこのことは人々にとって「は?当然そうですけど?今頃思ったとかうけるんですけど」と言われるようなことかも


性別とか年齢とか職業とかなんかの前提があるから、女医さんとかこども店長という言い方をするのでしょう、「わたしは穢れている」と書く場合は、本来は穢れていないはずだというような前提がないと書かないのではないかということで、「○○な人と話すときは、まず挨拶をします」と言う人がいたら、その表明の


「誰にでも挨拶をする」という人をわたしは変な人だと思うと思うが、


「わたしでも泣く」とか「ぼくでさえだまされそうになった」とかの前提は、自分が言う


「読みやすい文章を書こうと思うのは、読み手が自分よりも劣っていると思っているから」という話を誰かからきいた。


計算ドリルの問いにこたえる父の態度。

時計を外すことになる場所には持っていかないという前提で、ポケットに入れる時計を父に渡したら、なんかいろいろどうでもよくなって、自分がなににこだわっていたのかわからなくなりました。